家が比較的近所で恐らくは自分の家の前をよく通ると思われる、
Rusiaはもしかしたら自宅前にいろいろ置いていたので知っているかもですが、
先日祖母が闘病も空しく他界しました。
私が地元に戻ってきたのが2月末。
そして祖母が体調を崩し入院したのが3月の上旬。
それから自分も何度かお見舞いに行き、
決して近くではない県外に居る祖母の子供たち、
すなわち私の父の兄弟達も遠路はるばるお見舞いに来てくれました。
初めはこのブログにも書いたとおり、初めは数週間の予定ではありました。
年齢的にしょうがない部分もあったかもしれませんが、
日にちを重ねても病状が良くはならず、入院を続けていました。
6月初旬には、入院先を実家のそばの病院へと転院しました。
入院当初から希望していた自宅近くでの入院でしたが、
転院が終わった数日後には、父親から、
『そろそろ覚悟をしておいたほうがいい』
・・・そんな感じの話を聞きました。
自分には詳しくはその時は聞かされませんでした。
そもそも転院した頃から既に危機的状態だったようで、
いつ何が起きてもおかしくない状態だったようです。
6月12日、その日はちょうど仕事が休みだったのですが、
午前中に病院から電話、
『状態が悪化した、すぐに来て欲しい』
一刻を争う事態。
父親は仕事で外出中。連絡をしようにも父親は携帯を持ってない。
5分もしない中、着替えている最中に再度電話があり、
『心肺が停止した』
父親の連絡を待つ以前の問題だったので、すぐさま病院に向かう。
近所なのですぐ病院には着いた・・・が、
既に祖母は事切れた後でした。
心電図は既に波形が波打っておらず、
心臓の拍動が止まっているのを嫌でも知らされた。
その後、父親に連絡を付けて、迎えに行きました。
父親は昨日に葬儀屋さんに連絡を付けていたようで、
自分は特に慌てる事も無く、葬儀屋さんが遺体を自宅へ運んでくれました。
死因は心不全ならびに腎不全です。
腎不全の定義は通常時の30%以下にまで腎臓の機能が低下した状態、との事らしいですが、
祖母の腎臓の状態は最終的には通常時の10%に満たない状態でした。
祖母が他界した後、死亡診断書を見ながら何かの数値を先生が見せてくれたのですが、
心臓機能のとある数値が、500を越えると本当にまずい状態である数値が、
祖母の場合は600を超える数値を出していた、との事です。
心臓は体中に血液を送り出すポンプ、
腎臓は血液内の老廃物や水分(尿)の排出の役割と言うことで、
体内でもっとも重要な循環器であるこの二つが相互に機能をストップしてしまいました。
肝腎(肝心)という言葉通り、血液を送り出す心臓が殆ど機能せず、
かといって老廃物を取り排出するフィルターとしての腎臓も機能せず、
転院して数日して、尿を自力で出すこともままならなくなり、
昏睡状態に陥り、酸素吸入器などをつなげて『辛うじて』命をつないでいる状態でした。
自分も職場に連絡し、忌引ということで数日休みを貰い、
その後親戚などを招いてお通夜、葬儀、などなど行いました。
お通夜などは自宅で行うため、祭壇を飾るスペースの確保などで、
掃除が忙しかったです。
祖母の孫たち、勢ぞろいとはいかなかったのですが、
子供の頃はしょっちゅう合っていたはずの従兄弟の皆とも再会し、
各々成長した姿を見て、なんとも言えない気持ちになりました。
亡くなりはしたものの、こんなに沢山の子孫を残して、
そして焼香に来てくれる方々が、近所の方、親戚はもちろん、
自分が知らないだけですが、見たことの無い方まで着てくれて、
自分が数十年後に死んだ際にはこんなに沢山の人が死を悼んでくれるんだろうか、
なんて思ったりもしました。
享年87歳、若すぎる・・・とはいえないですが、
もっと長生きして欲しかったのが本音です。
祖母は生前、その年齢に関わらず嗜好品が好きで、
特にコーヒーが大好きでした。(ネスカフェゴールドブレンドが好き)
あとコーラも好きで、魚や野菜はあまり好きではなく、肉の方が好きでした。
煙草は吸いません。酒を飲んでいるのは見た覚えが無いのですが、
母親曰く『酒は好きだろうし結構強いんじゃないか』との事でした。
生前祖母と午前中、また午後のお茶タイム(コーヒー)
ではたまに祖母がコーヒーを入れてくれたのですが、
とてつもなく甘かったのを懐かしく思います。
母親が病気で入院し、自分は東京に居て、年に数回しか顔を出せず、
その間実家の祖母には家事、特に炊事をまかせっきりにしていたことも多々ありました。
母親がやっと退院し自宅で暮らせるようになった今年の初旬、
だんだん母親も体力が戻ってきて家事も軽くは出来るようになってきた矢先、
まるで今まで張り詰めてきた糸が切れるように・・・。
思い出を語るときりが無いのですが、
祖父は自分が小学校入ったあたりの境目で亡くなってしまい、
もちろん祖父と一緒に近くの山に行って遊んだりなどは覚えているのですが、
正直亡くなったあたりの事はあまり覚えていなく、
それ以降身内や近親者の不幸が殆ど無くて、
近しい人の死という事について何か遠いことのように感じていたのですが、
死はやがて訪れることを改めて思い知らされました。
memento moriですよ。
今回は父が喪主を勤めましたが、
もし数十年後万が一のことがあれば、
今度は自分が喪主を勤めることになるんだと、
果たして自分は一人前になれているのか、
また父親に孫を見せられるのか、(今現在そんな相手もいないのに)
今現在、なんだか不安でいっぱいです。
奇しくも祖父と同じ月の6月に祖母も亡くなり、
天国で祖父と仲良く暮らせていることでしょう。
皆さんも、おばあちゃんやおじいちゃんが居れば、
ご健在なうちにどんどん思い出を作ったほうがいいよ!
Rusiaはもしかしたら自宅前にいろいろ置いていたので知っているかもですが、
先日祖母が闘病も空しく他界しました。
私が地元に戻ってきたのが2月末。
そして祖母が体調を崩し入院したのが3月の上旬。
それから自分も何度かお見舞いに行き、
決して近くではない県外に居る祖母の子供たち、
すなわち私の父の兄弟達も遠路はるばるお見舞いに来てくれました。
初めはこのブログにも書いたとおり、初めは数週間の予定ではありました。
年齢的にしょうがない部分もあったかもしれませんが、
日にちを重ねても病状が良くはならず、入院を続けていました。
6月初旬には、入院先を実家のそばの病院へと転院しました。
入院当初から希望していた自宅近くでの入院でしたが、
転院が終わった数日後には、父親から、
『そろそろ覚悟をしておいたほうがいい』
・・・そんな感じの話を聞きました。
自分には詳しくはその時は聞かされませんでした。
そもそも転院した頃から既に危機的状態だったようで、
いつ何が起きてもおかしくない状態だったようです。
6月12日、その日はちょうど仕事が休みだったのですが、
午前中に病院から電話、
『状態が悪化した、すぐに来て欲しい』
一刻を争う事態。
父親は仕事で外出中。連絡をしようにも父親は携帯を持ってない。
5分もしない中、着替えている最中に再度電話があり、
『心肺が停止した』
父親の連絡を待つ以前の問題だったので、すぐさま病院に向かう。
近所なのですぐ病院には着いた・・・が、
既に祖母は事切れた後でした。
心電図は既に波形が波打っておらず、
心臓の拍動が止まっているのを嫌でも知らされた。
その後、父親に連絡を付けて、迎えに行きました。
父親は昨日に葬儀屋さんに連絡を付けていたようで、
自分は特に慌てる事も無く、葬儀屋さんが遺体を自宅へ運んでくれました。
死因は心不全ならびに腎不全です。
腎不全の定義は通常時の30%以下にまで腎臓の機能が低下した状態、との事らしいですが、
祖母の腎臓の状態は最終的には通常時の10%に満たない状態でした。
祖母が他界した後、死亡診断書を見ながら何かの数値を先生が見せてくれたのですが、
心臓機能のとある数値が、500を越えると本当にまずい状態である数値が、
祖母の場合は600を超える数値を出していた、との事です。
心臓は体中に血液を送り出すポンプ、
腎臓は血液内の老廃物や水分(尿)の排出の役割と言うことで、
体内でもっとも重要な循環器であるこの二つが相互に機能をストップしてしまいました。
肝腎(肝心)という言葉通り、血液を送り出す心臓が殆ど機能せず、
かといって老廃物を取り排出するフィルターとしての腎臓も機能せず、
転院して数日して、尿を自力で出すこともままならなくなり、
昏睡状態に陥り、酸素吸入器などをつなげて『辛うじて』命をつないでいる状態でした。
自分も職場に連絡し、忌引ということで数日休みを貰い、
その後親戚などを招いてお通夜、葬儀、などなど行いました。
お通夜などは自宅で行うため、祭壇を飾るスペースの確保などで、
掃除が忙しかったです。
祖母の孫たち、勢ぞろいとはいかなかったのですが、
子供の頃はしょっちゅう合っていたはずの従兄弟の皆とも再会し、
各々成長した姿を見て、なんとも言えない気持ちになりました。
亡くなりはしたものの、こんなに沢山の子孫を残して、
そして焼香に来てくれる方々が、近所の方、親戚はもちろん、
自分が知らないだけですが、見たことの無い方まで着てくれて、
自分が数十年後に死んだ際にはこんなに沢山の人が死を悼んでくれるんだろうか、
なんて思ったりもしました。
享年87歳、若すぎる・・・とはいえないですが、
もっと長生きして欲しかったのが本音です。
祖母は生前、その年齢に関わらず嗜好品が好きで、
特にコーヒーが大好きでした。(ネスカフェゴールドブレンドが好き)
あとコーラも好きで、魚や野菜はあまり好きではなく、肉の方が好きでした。
煙草は吸いません。酒を飲んでいるのは見た覚えが無いのですが、
母親曰く『酒は好きだろうし結構強いんじゃないか』との事でした。
生前祖母と午前中、また午後のお茶タイム(コーヒー)
ではたまに祖母がコーヒーを入れてくれたのですが、
とてつもなく甘かったのを懐かしく思います。
母親が病気で入院し、自分は東京に居て、年に数回しか顔を出せず、
その間実家の祖母には家事、特に炊事をまかせっきりにしていたことも多々ありました。
母親がやっと退院し自宅で暮らせるようになった今年の初旬、
だんだん母親も体力が戻ってきて家事も軽くは出来るようになってきた矢先、
まるで今まで張り詰めてきた糸が切れるように・・・。
思い出を語るときりが無いのですが、
祖父は自分が小学校入ったあたりの境目で亡くなってしまい、
もちろん祖父と一緒に近くの山に行って遊んだりなどは覚えているのですが、
正直亡くなったあたりの事はあまり覚えていなく、
それ以降身内や近親者の不幸が殆ど無くて、
近しい人の死という事について何か遠いことのように感じていたのですが、
死はやがて訪れることを改めて思い知らされました。
memento moriですよ。
今回は父が喪主を勤めましたが、
もし数十年後万が一のことがあれば、
今度は自分が喪主を勤めることになるんだと、
果たして自分は一人前になれているのか、
また父親に孫を見せられるのか、(今現在そんな相手もいないのに)
今現在、なんだか不安でいっぱいです。
奇しくも祖父と同じ月の6月に祖母も亡くなり、
天国で祖父と仲良く暮らせていることでしょう。
皆さんも、おばあちゃんやおじいちゃんが居れば、
ご健在なうちにどんどん思い出を作ったほうがいいよ!
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いずれブログにあげてくれると思ってね。
んー・・家にも88のばあちゃんがいるがなんかこう・・実感がわかないw;
いずれくるんだろうけどね。
後で電話するよ。